「行ってから踏ん張んべ」 (1)

高校卒業と同時に「留学したい」とは強く思っていたものの、高校生にありがちな「勢い中心」の進路希望。あまり具体的な対策も立ててないから、TOEFLは受けてもスコア「360」が壁という低レベル。よく考えたら最低点が「330」のこのテスト、すべての選択問題を「1」で統一してもそのスコアははじき出せないと言われたのが当時のレベルでした(高校では赤点だらけで「よく卒業できたね」という状態)。

親父は「戦後の楽しみは勉強だった」というマニアックな方。学生時代にNHKラジオ講座を使い独学で英仏独語を学び、大手H社の研究所でエンジニアをしながら社内通訳もしていた「なせば成る」を地で行く頑固者。

お母さんは「自分がやりたいことの準備もちゃんとできないんだったら、どうせたいしたことにはならん」というこれまた結構バリバリな頑固者。

そんなんだから、「(出来の悪い)あんたの進路の面倒は見ない」という共働きの両親に、「あんたらのお世話にはならない」という、ちょっと頭の弱い次男。

1994年春、高校卒業式が済んだ翌週から派遣で京急・生麦にある某倉庫内で力仕事を開始。

50kgの豆が入った麻袋を一日20t移動する仕事内容のため、「ギックリ腰」で周囲が次々に脱落する中、「これダメになったら貯金ができん」と筋トレ開始。腹は八つに割れ、なぜか走る足が速くなるが、ますます英語の勉強どころではなくなる。「受けてるだけ」のTOEFL受験は高いということもあり、結局「TOEFL不要」の短大のESLを選択することに。

季節はすでに夏。同学年の友達はみんなが大学生活最初の夏休みに突入する中、ひたすら倉庫内でのバイトに明け暮れてた毎日。「ほんとうに留学できんのかね」とか疑念が頭をよぎることも多々ありました。

当時イギリスで働いていた姉が旦那チャーリーと日本に引っ越してきたのを良いことに、「すんません、申し込みの書類をどう送れば良いのか、全然理解できんのだわ」と馬鹿な質問する弟。

「いや、行ってから踏ん張れば良いって」と、英語上の修羅場を、先に高校への単身渡英でくぐり抜けた姉は言う。何やら英語を書きながら麦茶を飲み干すその姿に、少し安心感を憶えたりしたものです。

ちなみに当時は一般的にインターネットなんて言葉が知れ渡る前。もちろんアメリカとのやり取りは電話か手紙でした。以前マサさんが書いていたように、英語初心者以下の俺にはただでさえやり取りなんて無理なのに、電話で英会話なんて不可能。当時はひたすら手書きで出願してました(姉に書いてもらった文面を模写して、学校名のみ変更する方法)。

貯金のことを考え、冬学期からの開始を希望していたので、倉庫のバイトをやめたのは10月末日。高校時代のバイトで貯めた金額と合わせて、ギリギリ「I-20」がもらえるところに辿りつき残高証明書を発行してもらう。

申し込んだだけで何も難しいことはしなかった割に「合格通知」が次々と届くと嬉しかったものですが、ここまで来ると、今度は「やべぇ英語なにも分からんが大丈夫なんか、俺」と毎日不安が募るのみ。楽な道を選んだ分、変に後ろめたい不安に襲われたというか。

当時はまだ米国大使館での面接が義務付けられおらず、旅行代理店にお金を払って「学生ビザを申し込む」というのが通常の時代。知り合いの代理店に必要書類を提出すると、翌週には「たっちゃん、届いたわよ」という連絡がきたものです。

あれよあれよと出発の朝。

中学入学以来、あまり両親とのスキンシップって記憶がないものでしたが、憶えてる限り初めて母から「がんばってらっしゃい」と固く握手されたのは記憶に残っています。

成田に向かうJR内、ずっと車窓の外を見ながら駆られた、何とも言えない「ほんとうにこれで良いのかな」という虚無感も今まだ鮮明に憶えてたりします。

1994年12月中旬に初渡米。「やべぇ、このスチュワーデス、何言ってんのか分かんねぇ」とか、ひたすら緊張していた俺が降り立ったのは「シアトル(Seattle)」。

空港内を歩き、周りを見回す限り「あ…全員外人」という状況。「てか、ここじゃ俺が外人か」とお馴染みのボケをしながら自分の荷物を探す。「やっぱアメリカ人てデカいな」と改めて、国も体格もでかい「アメリカ」に少し後ずさり。

「やべぇ、この親父何言ってんのか分かんねぇ」という入国審査。ひたすら「サイトシーイング、サイトシーイング」でごり押し通り抜ける、やっぱ勢いだけはあったあの頃の俺。今よく考えたら、あの頃は非常に平和な時代でした。

カートに載せた荷物を押しながら到着口に着くと、「日本育ちですか?」と聞きたくほど日本語がペラペラな留学先のアドバイザーが「Welcome Tatsuya!」と書かれた白板を持って待っていてくれました。

彼の日本語に安心感を抱きながら車で南下して約30分の街、「タコマ(Tacoma)」にある「タコマコミュニティカレッジ(Tacoma Community College)」が俺の出発点でした。

つづく
 

「行ってから踏ん張んべ」 (1)” への5件のフィードバック

  1. 読んでいて自分の時のことを読んでいるようでした。同じ年齢で同じように苦労して学校探して、ちょっと早く夏にどうにか渡米してシータックへしかもタコマ…え⁈
    私は隣りのコミュニティカレッジのピヤースでした!笑

  2. シンイチさん、
    あの頃の学校探しメチャメチャ大変でしたよね。電話帳みたいな大きさに、ひたすら学校の概要が載っているカタログとずっと格闘してた記憶があります。てか、数えたらもう18年近くってのが…え~とショックです(苦笑)。たまにこうやって「はじまり」を復習するのは大切だなぁなんて。読んでくれてありがとうございました。

  3. 私も読んでいて、自分の渡米前と渡米した日のことを思い出しました。私自身はエージェントを使ったし、当時はインターネットやメールでのやりとりができていたので、たつやさんのような苦労はしなかったものの、あの時の熱い気持ちを思い出しました。
    ありがとうございます。

    続編、楽しみにしてます!

  4. 私も自分のときのこと思い出しながら読みました。

    そうそう、バイトしてお金ためたんだよな~。

    私もシータックでアメリカ初上陸(初海外)。たつやさんの二年くらい前だわ。
    しかも、到着時間が間違って伝わっていたため、空港に着いたは良いが迎えがいないっ(汗)!

    あの頃は携帯電話もなかったから、電話しようと思ったら公衆電話だし(いきなりハードル高い)、まぁ、迎えに来てくれた人と数時間後に無事に会えましたが。

    私はTacomaの少し北のFederal WayとKentでホームステイして、Kentの小学校でボランティアをしてました。

  5. あの「実家~成田」の道のりは、今でも「後ろ髪を引かれる」「名残惜しい」感覚が強くて、以来ずっと苦手です。

    てか、俺もあの日(手紙のやり取りのみで段取りした)迎えがよく時間通りに来たものだ、と感心してしまいますわ。「迎えとは時間通りに会えない」ってのが当時は当たり前だった気が…

    そう言えばTacoma、常に生臭かった記憶が(あの辺を運転してると、その臭いで『タコマに到着』を実感できると思う)。

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