「行ってから踏ん張んべ」(10)

シアトル内にあるリンの住まい(この頃には、豪邸一軒家の間借り)に着き、一息をついたところで、「あ、そういや暫く会ってないからジョーのところでも行こうか」という話。

ジョーは俺とほぼ同い年のハーフで、苗字は山田。父は日本人、母は軍居住区(横浜市根岸)の小学校教師。こんなに日本人男児らしい名前なのに、日本語は片言のみ(彼の兄ケンは日本語独学なのにペラペラかつ朝日新聞を愛読するのだが、ジョーとその妹エイミーは日本語が苦手)。

当時横須賀の米軍基地内で知り合ったリンを介し、俺が高校二年からの友達。

当時ジョーが住んでいた街ベーリンガム(Bellingham)はシアトルから車で北へ約1時間半。バンクーバーからは車で南に1時間超に位置する。

高校の頃から生徒会長したりバンド(当時彼がドラム、リンがギター、俺がベース)をしたり、積極的で人望が厚い彼は、通っていた大学「Western Washington University」でも常に人に囲まれていて常にセカセカと動いている存在。

ただ、リンが来るとなると「Kosei~!(リンの下の名前)」と時間を取ってくれる。

「お~タツヤ~」と久々の再会も束の間。夕方到着したそのままのノリで「バンクーバー行こうぜ~」という流れに。ついでに、ジョーの他の友人も誘うことに。

リン以外は全員アメリカ人という状況で、車4~5台に分乗し北上する。もちろん車内はバリバリのアメリカンな大学生ペース。

道路に出ると助手席の数人は即窓を開け、そこから乗り出し「イエ~」と叫び合いながらクラクションをプップ鳴らしまくる。みんなはガハガハ笑い合い、ハイファイブしまくってる。

や、やばい。このテンション、全然付いていけない。

てか、英語が、は、速い。

てか、やべぇ、何言ってるのか半分くらいも分かってない。

当時カナダとアメリカの国境は、アメリカの身分証明書があれば完全スルー。しかもカナダの成人年齢は19歳(アメリカは21歳)なので、よく国境を越えてアメリカの大学生は飲みに行ってたそう。

10人以上のアメリカ人大学生グループに混じりながら、バンクーバーを徘徊。バーをはしごしては騒ぎ倒す。

どうにか笑顔は保てるが、なんか難しい(てか、英語が分からん)。

結局この後、そのままの勢いでジョーのキャンパス内のアパートの床で雑魚寝するまでに発した言葉は、「イエー」「アハん」くらいしかないことにちょっと戸惑う。

翌朝起床後、大学のカフェテリアで朝食をいただきながら、ふと「ESLクラスに慣れただけで、結局実際の『留学生活』には辿り着いていないんじゃないだろうか」という疑念を抱く。

そして「なんかタコマに居たら、この先の展開はないんではないだろうか」という極論もチラホラ見え隠れる。

十数年経過した今、思い返すと「そんな白黒をはっきりさせなくても…」と苦笑いできるが、当時は追われるように「渡米して、んヶ月が過ぎた。もうペラペラになっててもおかしくない」という難題を自分に課して、ひたすら「自分に厳しく」していた記憶があります。

週末の空騒ぎの疲れなのか、「俺なんか、まだまだだ」という予想以上にアメリカ人に対応できなかったことからの強い思い込みからなのか、少し無口でタコマに帰宅。

リンが去った後、いつもの自分のペースに戻ろうと、辞書を片手にテレビに見入ろうとする。

ただ、頭の中は「転校したいんだけど…」というTCCへの電話相談を開始することでいっぱい。

月曜朝一番に向かったのは相談先。

行き先に思いついた最初の学校は「Bellevue Community College」。多くの留学生が集まる場所でもあり、リンも居る。アメリカ人学生との接点が多い彼に近い位置に自分を置けば、もっと充実するのではないか。そんな安直な期待からでした。

転校手続きが進む中、ムンちゃんとの会話は「引越し」に話題が行くと、次第に変な名残惜しさに包まれ、ちょっと苦笑いしながら言葉に詰まる。

何度か夜間に練習した運転は、その週に試験を受けることに。

縦列駐車(parallel parkingと言います)は、前後にオレンジ色のコーンを置いて試験する。ほんとに苦手で、ガコンと一個を倒してしまう。

「あちゃ~」と舌打ちしてため息を吐くが、終わってみれば「合計92点。合格よ」と試験官。

「どんな採点すか?」と愚問を発することはせず、素直に「サンキュ」と満面の笑みで免許証を受理。

期末試験の週。各クラスの最後のエッセイを提出して、テストをクラス前方の机に置いて部屋を出る前に、今まで散々質問攻めにしていた先生に「お世話になりました」と言うと、みんな「3ヶ月でこんなに英語できるようになったんだから、あなたはもう大丈夫」と言いながらハグか握手をしてくれた。

いよいよ引っ越す当日。ムンちゃんが「最後にまたお昼でも食べよう」と誘ってくれたので、自分の荷物が全部詰まったスーツケース2個をトランクに入れ、レストランに向かう。

タコマからシアトルなんて、車で30分。

「これでずっとさよなら」という大袈裟なことはないはずなのに、「まるで最後」のように、いつも以上に話し込む。いつも以上にくだらない話でガハガハ笑う二人。

BCCへ春学期から転校した僕は、5月のTOEFLで無事480点を獲得。これでESL以外のクラスも受講開始のめどが立ち始める。

ただ、期待していた「アメリカ人学生も留学生も多い」というシアトルの環境。

実は「カフェテリア内に行けば、テーブルごとに中国人、韓国人、タイ人、ベトナム人、日本人などのグループができている」「キャンパスを歩いていると日本語が聞こえる」というのが実情。

BCCに嫌気がさしてきたこの頃。次の展開を考え出してる自分がいる。

結局、1995年秋学期から「日本人留学生を避けるように」アイダホの田舎に向け、また引っ越すことに。

僕は、以降1999年夏に完全帰国するまでを、短大「College of Southern Idaho」と編入先の4年制大学「University of Mary(中退)」で過ごすのですが、帰国する前に一度だけ(遊びで)TOEFLを受けたことがあります。スコアは620。

帰国直後にTOEICも一切勉強せず「力試し」で受けました。結果は960。

初めてシアトルに降り立った頃の自分を思い出すと、これらは素直に嬉しいのですが、実際の感想としては「留学の価値は、英語テストの結果なんかで推し量れる小さなもんではない」ということ。

英語力はテストのスコアだけで決められないし、留学した結果、得たものは『英語力』なんて小さいものではなく、現地で知り合った世界各国出身の友達との何にも代えがたい貴重な経験だし。

僕が初めて留学した頃は、米国内の留学人人口では日本人がトップ。僕がしたように、意識して避けなくてはいけないくらい、どこの学校にも日本人がいたものです。

最近のレポートなどを読むと、今の若い世代には中々「留学」自体が選択されないらしいですが、やはり「踏ん張った」その先に見える景色というものを経験してもらいたいものです。

ちょっとしたことではビビらなくなりますし、「海外でひとり」という経験をすると。

ま、ぶっちゃけ、同じく留学経験者の姉とは、「個人的には、もう二度とあの『何言ってるか、分からん』て留学当初の地獄のような経験はしたくないけど…」と苦笑いしてますが。

ちなみに、ムンちゃん。

恋愛感情というよりは「同志」のような感覚だったので、二人の間には、特に(期待されるような)甘酸っぱいことは一切なかったのですが、渡米して初めての3ヶ月を精神的に乗り切れたのはムンちゃんとの友情によるところが物凄い大きかったです。

本当にあまり言葉が通じない頃から我慢強く毎日相手してくれました。

国籍、性別、家庭環境、言葉などすべてを超えて本当に何でも遠慮なく話せる「友達」でした。

あれだけ毎日一緒に楽しく時間を過ごして、どうして「下心」に繋がらなかったのかは今になると思い出せないんですけど(苦笑)、たぶんそんなことが頭に過ぎる暇がないほど、一生懸命お互いを相手していた感じです。たぶん。

その後、ムンちゃんとは数回タコマで再会しました。ただ、1996年冬の数時間の再会を最後に、電話が繋がらず郵便が全部返送されるようになり、連絡不通となりました。

いつか再会したら、「その折はカムサムニダ」と今度は僕が日本の海苔巻きをご馳走しないとな、なんて思ってます。

…と見せかけて、つづく。 

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6 comments on “「行ってから踏ん張んべ」(10)”

  1. 今年外国語大学に入学した次男がTatさんの記事をとても楽しく読んでいて
    刺激を受けています。
    私は大学も行かなかったし、留学もしなかったけれど息子にはいい経験や
    素敵な友達を世界中に作れるように息子自身で頑張ってもらいたいです。
    (道端で銃を突きつけられるような経験も、命にかかわらなければOK)

  2. あ~ヒサヨさん、コメントありがとうございます。
    次男な自分が言うのもなんですが、やっぱ次男君は伸びますよ~(苦笑)

    結局は親の後押しです(必ずしも金銭的なモノでなくても精神的に)。
    ウチの母は「自分で行ったんだから、自己責任でちゃんとなってきなさい」とゴリ押しされてましたが、(結果今がちゃんとしてるかは別として)その勢いに乗っかっていたようなところもありますしね。

    銃、結構洒落にならないですけど、あれを経験してから、山中を運転中に眠たくなって危うく崖から落ちそうになった以外では、あんまビビッたことござぁせん。人生何事も経験でした、ほんとに。

  3. お疲れさまでした★
    いやー、もっと連載して頂きたかったです。名残り惜しい。
    そこがいいのかもしれませんが。

    確かに留学っていうとアタシもそうでしたが最初は語学・語学・語学漬け。
    それに焦りジタバタしてましたけど、その先に得た感覚は語学以上のもの
    だった気がします。アメリカに行く時と日本に帰国する時の私とはまったく別者でしたね。あと3年はアメリカにいたかった。不完全燃焼です。
    当時もっと何をしたいかどうなりたいかが明確だったらなと思います。
    帰国後の燃えた気持ちは学校の勉強しか行き場がなくなってしまって成績は良しでしたが、また日本ぽい流れに流されてしまいましたから。

  4. りょ~ちゃん、あらま~「名残惜しい」なんて、どうもどうも。
    イルカ歌いながら、次の展開をお待ちください。

    たぶんその前に帰国して、お宅で鴨鍋突っついてるかも知れないが…

  5. 4月に大学を休学して先月にボストンに来ました。
    英語もなにもかわらない状態で一ヶ月経って、なんとかきてますが、たまに心が折れそうになります。そんなときにはこの話しを思い出しています。
    とにかくお金もない,英語もわからない毎日ですがたつやさんみたいにがんばります!!

  6. りょうさん、ご感想の投稿ありがとうございます。
    その勢いが本当に肝心で、すでにアメリカに辿り着いてるし、もう後は難しく考えず、ひたすら我慢しながら楽しくなるのを待ち続けるだけですよ。その「苦楽しい境地」は何十年経っても結構笑いながら振り返れる、そうプライスレスな思い出になると思います。
    お互い踏ん張りましょう。

    ありがとうございました。

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