ごめんなさい、を言う前に

1998年7月17日夜11時過ぎ。

外出先から帰宅して、鍵を置きながら電話を見ると、留守電が入っている。

仲は良いが、普段電話なんかはせず、久しく声を聞いていない姉から。

「(…ツー)あ、タツヤ?お姉さんだけど。何かね、お父さん、もうあと残り24時間くらいらしいよ」

 

折り返しの電話をかける。

 

「お母さんと入れ替わりで、たった今、病院から帰ってきたんだけど…」

 

詳細を聞き受話器を置くと、急いで電話帳をパラパラめくり、航空会社の番号を調べ始める。

翌朝一番の日本行きの飛行機、取れるかな。

 

—–

当時、まだアイダホ州ツイン・フォールズに在住。

その夏は、編入先の四年制大学が決まり、短大を卒業。6月下旬まで帰省し、地元マックで夜間清掃や諸々の夏バイト。7月上旬には所属していた短大のジャズバンドとのスイス・モントルー公演を終え、ちょうど米国に戻ったばかりのこと。

ついにこの時が来たか。

 

—–

勉強はできないし、あまりヤル気がない中学生の自分と、若干ちゃんとしている理数系のお父さん。

テスト前になると勉強を見てもらっていたが、「何でこれが分からないんだ」と繰り返す彼と、「お父さんの教え方がわかり難いんだって」とボヤく俺。

いつしか、時々顔を合わせると些細なことでぶつかるようになっていた、反抗期が若干長めの俺。

高校一年後半だか高校二年初め、そんなお父さんが肝炎を発症。戦後間もない小学生時分、北海道でも予防注射は皆で針を使いまわしていたから、だとか(実は、個人的に経緯についての記憶や知識が薄いのだが、この一部は集団訴訟になっている)。

自分は、精神的に幼かったのだろう。彼との距離をさらに置くようになる。

 

—–

(苦学生ではあったことは知っているが)勉強が好きで、(もちろん頑張ったからだろうが)いい会社にいて、(これまた誇りに思っていたからだろうが)仕事ができて。

絶対にあの人みたいにはなりたくない、と捻くれていた俺。

高校も興味ないから、成績とかどうでも良いから、バイトしまくって、日本に進路がないなら、留学も自分で何とかする。

全然分かっていないのに、分かったように振舞う俺。

 

—–

一見「父が病気して」という話だが、まだリストラという言葉がない、平和な当時の日本。

発症後、ほとんど仕事ができない状態の彼でも定年退職まで居させてくれた当時の会社。

本当に運好く、金銭的な課題はそれほどなかったらしい。

ただ、その後入退院を合計11回繰り返したお父さんの周囲、特にお母さんの精神的に苦痛な挑戦がその後約6年超続く。

もしかしたら、当時の留学についての決心も無意識に「逃げる」行為の一環だったのだろうか。今でもたまに思う。

 

—–

父・危篤の報の直後、何とか翌朝5時台のアイダホ州ボイシー発の便を予約。

「今回はとりあえず緊急時の金額で発券させていただきます。後日、アメリカに戻られる際、成田空港に死亡証明書などのコピーを持参していただく流れになります」

丁寧に電話案内を受けてから、すぐ荷造り。

空港まで約二時間半の道程。なにやらルームメートが車を出してくれるらしい。

 

—–

横浜に着き、姉宅に電話する。

「お母さん、今家に戻ったから、たぶんタクシーで病院に向かう感じでないか」

 

意識のないお父さんの病室に着くと、あの「姉からの電話」からちょうど24時間くらいが経っていた。

その傍に妹を見つける。

仕事で遠方にいる兄は、新幹線で都内に向かい始めたところだとか。

 

—–

少し痩せた印象だが、結構ツルツルした肌。

目を閉じて仰向けに横たわる彼の顔をボーっと見ていると、一番最初に過ぎったのは…

「ごめんなさい」

涙が出るとかではなく、単純に反省の念。

まだかすかに温かい、やせ細った彼の体をさすりながら、ひたすら謝る。

 

—–

看護婦さんが入ってくる。

俺「…あの、今って、痛みとかあるんですかね」

看「…うーん、どうかな」

 

看護婦さんが親父さんの乳首をつねる。

看「…反応無いみたいだから、もう痛みはあまり感じてないはず」

 

そうやって調べるんだ…

 

ちょっと引きながら、妹と軽く言葉を交わす。

 

少し眠くなったな。

 

病室外の暗い廊下にある横長の椅子に寝そべると、睡魔が急に襲ってくる。

 

「タツヤ、少し寝たら」

廊下に出てきたお母さんに言われ、目を閉じた直後の記憶はない。

 

—–

「タツヤ、タツヤッ」

お母さんに再び声をかけられ、目を開けると一瞬自分が今どこにいるのか分からない。

 

妹がどうやら最期を看取ったらしい。

ついでに彼の最期の瞬間に発した一声も耳にしたとか。

 

1998年7月19日夜。

次男が横浜に戻ってから約三時間後、父・陽一が帰天。享年65。

 

ギリギリその場に間に合わなかった長男以外、家族四人は一応彼の最期の場に居れた。

 

—–

葬儀屋への周知というのは早くて、病院を出入りする頃にはすでにお母さんには名詞が届いていたようだ。

後日粛々と説明を受け、書類作業を済ますと、幼い頃から家族で通った大船カソリック教会に新築された聖堂でのお葬式第一号として行われることに。

 

—–

皮肉なことだが、比較的若く亡くなると、故人のお葬式への友人達の出席率は高くなる。

そこに、大学時代を一緒に過ごしている、井上ひさしさんがご出席下さり、笑いを交えた鮮やかなご挨拶。

親父さんともう一人を加えた大学時代の逸話を小説化した「モッキンポット師の後始末」の実話裏話を話してくれた。

井上さんの話を聞いてると、親父といえ、なんだか知らないことのほうが多かったのかもな、と痛感。

涙が止まらない。

 

式の最後、兄が「送り太鼓」を叩き〆め、無事すべて終了。

あれはなんか良かったな。長男が各方面の表舞台で色々と活躍し出した頃、何か嬉しそうに話を聞いてたし、お父さんも嬉しかっただろうな。

 

—–

いわゆる第二次世界大戦を経験した世代で、何しろ「モノを捨てられなかった」彼。夜、彼の部屋の近くに行くと、黄色い光の電灯一個を点けた暗い部屋で新聞紙を広げて、買えば数百円の笠を、目を凝らしながらカチャカチャと直すようなマメさを持っていた。

その他、色々と溜め込んでいた、四畳もないであろう彼の部屋には、手作りの棚が天井付近まで伸び、膨大な数の本や各種書類が壁や柱のよう詰まれていた。

 

マイペースなお母さんは、まだ「お父さんの部屋の整理」を続けている。本当に気が向いた時にしかやらないので、まだ終わる気配はない。

まだ見たことない、または久しく目にしていないような写真や黄ばんだ藁半紙に走り書きされた書類は、お母さんは束にしてよけておいて、帰省すると毎回見せてくれる。

「処分する前に一度はあんた方に目を通してもらったほうがいいと思って」

 

幼少期以降、お父さんとはそこまでいい思い出はなかったはずなのに、今は家族で集まると、そのすべてが笑い話となる不思議。

また、家族、近親者の不幸をきっかけとして、残りの家族はより家族らしくなるもので、今は比較的ほど良い距離を保ちつつ、お互いをそこそこ尊重する、あまり気張らない感覚が強い。

私見だが、十代や二十代に感じた、「将来どうするの」という変な緊張感もなくなった(諦めがついた)からか、昔感じていた「タブー」も、会話の中から少しずつ消えていっている気がする。

 

—–

引きずっているのかは不明だが、昔のお父さんとの一連のやり取りを「若気の至り」と片付けると、そこそこ諦めがつく歳になったし、それなりに年月も過ぎ考えることも少なくなったが、まだたまに思うこともある。

 

幼稚園年長だったか、小学校低学年の頃、たまたま連夜帰りが遅かった当時のお父さん。

食卓で独り晩飯をつっついている彼のもとにトコトコと近付く俺。

あまり量は飲まないのだが、大切そうにウィスキーで晩酌しているお父さんは、横目でこちらを見る。

「タツヤ、なめるか?」

「うん」

 

ぺロ。

 

「うげッ。なんじゃこりゃッ」

 

笑いながらグラスを取り返し、また美味しそうに大切に飲むお父さん。

 

そんな俺、最近やっとウィスキーを飲めるようになった。

 

今だったら、色々なことを謝り水に流せて、たぶん飲みに行ったりできて、対等に話せることが山ほどある気がする。

 

が、とりあえず…

ごめんなさい、を言う前に、今はとりあえず一杯だけでも交わしたかったな。

 

=====

余談:

以前から朝日新聞の連載「おやじのせなか」が好きなのだが、今回思い出したように「親父」について書いてみた。

なんだかんだ言って俺も39歳。

そりゃ親世代も歳をくうし、当然の流れなのだが、去年あたりから、周囲で特に同世代の友達のご両親がご病気になられたり、亡くなられることが多くなってきた。

 

俺の場合、幸運にも兄姉妹とその家族がお母さんのすぐ近くにいるが、個人的には離れているため、ふと心配になることがある。

「だから日本に帰る」という簡単な話ではないのだが、別れは突然来るもの、とは痛感している。

「さよなら」を言う前に、「ごめんなさい」と「ありがとう」はもちろん、話せることはなるべく生で伝えておかないとな、と常々強く思う。

 

ta 

ごめんなさい、を言う前に” への7件のフィードバック

  1. 読みながら涙出ました。なんだか、色々な思いが込み上げてきてしまいました。わたしの状況と少し似ているので。

  2. ゆうさん、
    読んでいただいて、しかもご感想までいただき、恐縮です。
    ありがとうございます。

    次はもう少し明るい内容を書きたいと思います…

  3. 気持ちが引き締まりました。
    貴重なお話ありがとうございます。僕は今アメリカにいますが必ず学校を卒業したら、日本に帰って孝行をしたいと思っています。
    友達が悲惨な交通事故で亡くなったのをきっかけに当たり前のことって当たり前じゃないんだなと思いました。なんというか、その日その日を一日ずつ認識するようになりました。両親もまだ若い方ですが早く孝行したいです。
    誰よりも迷惑をかけた自負があります。できれば今すぐにでも孝行をしたいと思っています。よく友人にアメリカに残らないのか?
    と聞かれますが僕はいつも
    日本に帰るよ。日本でやらなきゃいけないことがたくさんあるからね。といつも話しています。早くそれが実行できるようにダラダラせず準備をして行きたいと思います。

  4. やましたさん、ご拝読と感想のコメント、どうもありがとうございます。
    国を離れると急に「親ってすげぇ」と思いますよね。

    親からすると、「いや、お前が居心地いい所にいて、元気に楽しくちゃんと生活できてればいい」と思うらしいですが、離れている側からすると「なんか恩返しをしないと」て気持ちは強まりますよね。

    皮肉なものですが、親しい人が亡くなると急に初めて「死」「時間制限」みたいなものを意識しますよね。

    その世代その世代で、個々にやれることは異なると思いますが、ヤマシタさんと同様、僕もできることから少しずつこなせて行ければな、と思います。

    米国での生活を楽しみながら、お勉強も踏ん張って、この先の明るい未来に向かって邁進しましょう(てか、今後の日本を是非よろしく)。

  5. 電話もめったにせず、大体痺れを切らした両親からもらったり、誕生日カードなんか数ヶ月遅れで出してしまう自分。この投稿読んで改めて反省した。あかんな、私。今晩、電話しよう。

  6. またまた通りかかりました。笑
    確かに思春期の時期の親父との間の葛藤って男同士だからか
    言葉に出来ない感情がありますよね。自分も今はアメリカに
    いるけど。そのうちは帰って毎週顔を見たいなって思いますよ。
    なんだかんだ言っても家族なんでしょうね。
    確かに今まで本当に困った時に助けてくれたのは彼を含めて家族
    しかいなかったし、それを思うと泣けて来ますよね。

  7. Tyさん、
    あらま、どうも度々ありがとうございます。

    日本に帰ると、ここ数年、同級生や歳が近い世代との会話は大体親の健康が占めてます。そうでなければ、自分の体の痛いところとか。

    会える内に、て思っていても中々上手く段取りはつかないもんで、僕はオヤジさんに何もできなかった分をお母さんに、て心構え、ここ数年は特に何か手伝えることや、「これやるから、見に来て」みたいなことは必ずイエスと言うようにしてます。

    在外邦人、皆さん結局葛藤の中身は似てますよね。

    また気が向きましたら是非チラ見しに来てください。

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