“Je Suis Charlie”とペンと剣

こんにちは、Erinaです。

私が子供の頃から好きな言葉に、「ペンは剣より強し」があります。英語では”The pen is mightier than the sword”と言われますね。

 

私はもともと、本を読むのも好きで、文章を書くことも好きな子供でした。

3年前に、このアメ10で記事を書く機会をいただいて以来、自分の言葉を世界に発することの意味や、その影響も何度も考えさせられましたし、そのプロセスは現在進行中です。

 

 

先週、フランスはパリでテロ事件が起こりました。

この事件に反対するデモは各国首脳たちも含めた歴史的なものにもなりました。アメリカでも有名人たちがこのテロ事件を批判したり、”Je Suis Charlie”, 英語で”I am Charlie”のハッシュタグがものすごい勢いで拡大しているようです。

 

反テロの行進に参加する首脳たち。左からイスラエル首相、マリ共和国大統領、フランス大統領、ドイツ首相、EU大統領 (from abc7.com)
反テロの行進に参加する首脳たち。左からイスラエル首相、マリ共和国大統領、フランス大統領、ドイツ首相、EU大統領 (from abc7.com)

 

事の起こりは、先週7日、アルカイダ系の過激派男性二人が、パリに本社を置く風刺画出版社、Charlie Hebdo(フランス語でシャルリー・エブドかな?)に銃とライフルを持って突入。編集長を含めた社員たちをランダムに銃撃しました。

別の場所では同じく過激派と見られる容疑者が、グロサリーストアで人質をとって立て籠り、9日までの三日間で警官二人を含む20名が死亡するという事件が起こりました。

 

私はちょうど休暇中でニュースを見ておらず、自宅に帰ってきてこの事件を知りました。途中からだったので話がまったくわからず、とにかく「テロ」ということだけが残りました。

そしてこの事件を調べているうちに、この「ペンは剣より強し」を思い出したのです。

 

容疑者たちが、出版社Charlie Hebdoを標的にしたのには理由がありました。

Charlie Hebdoは風刺画を作品としているのですが、特にイスラム教のリーダーや開祖であるムハンマドを対象としたものが多く出版されています。これに報復することが目的で、今回のテロ攻撃が起こったと考えられているようです。

今回の襲撃事件で、「言論の自由」が話題になっています。英語では”Freedom of speech”です。

「人間は誰でも『言論の自由』があるので、この襲撃は間違っている」

というところでしょう。

確かに、この事件で亡くなった方たちやその家族、そしてこの恐怖を体験したパリにとっては悲惨な事件だったに違いありません。このような攻撃的な手段じゃなくても良かったかもしれない。

 

しかし、「言論の自由」=「何を言っても良い」のでしょうか?

私はCharlie Hebdoの作品をいくつか探してみました。

確かにイスラム教やムハンマドを風刺した過激なものが多く、中には下品なものもあります。

私は無宗教で、お正月もバレンタインもクリスマスもやる典型的なミーハー日本人ですが、もしこの風刺の対象が仏教だったり、日本の古くからの神様たちだったら、おそらく気分を害されるはずです。

これらの作品を目にしてきたイスラム教過激派たちは憤慨し、今回の襲撃事件が起こりました。

 

アメリカにも風刺の文化はあります。

サーカズムの記事や、自虐ネタの記事でも書いたように、ある程度の批判(クリティシズム)は面白いことを言うには必要な場合もあります。しかし、それもきちんと練習したり、時と場合を見極めなければいけないというのは、誰もが他人への礼儀、つまり”Respect”として備えているのです。

 

面白い記事を見つけました。

“Je Suis Charlie (Hebdo)” = “I am Charlie”に反して、“I Am Not Charlie Hebdo”というタイトルの記事の一文です。

“If they had tried to publish their satirical newspaper on any American university campus over the last two decades it wouldn’t have lasted 30 seconds. Student and faculty groups would have accused them of hate speech.”

「もし彼ら(シャルリー・エブド)が過去20年間にアメリカの大学キャンパスで出版しようとしていたら、30秒ももたないだろう。学生や教授陣が、彼らをヘイトスピーチとして訴えるはずだ。」

この記事を読んで同意できた私は、アメリカはパリよりも他文化に寛容であり、それを礼儀なく批判するものは逆に排除される文化なのかもしれないと感じたのです。

 

 

ペンは剣より強いかもしれません。

一本のペンが、現代では何万人、何十万人の心に届き、心を動かすことでしょうか。特にインターネットの力は強大ですよね。そして自分の中にあるものを、ペンを使って表現できる人の才能はやはり素晴らしいものだと思います。

私自身もこうやって、とりとめのない文章を書くことで、会ったこともない読者の方からコメントをもらうことで、世界とつながる素晴らしさを実感しています。

しかし、ペンは強くても正しいとは限りません。

自分なりの目的や意志がそこにあって書いたとしても、それがどう受け入れられるかは、書き手にはコントロールできません。自分の表現が誰かを傷つけている以上、やはりそれは「攻撃」であるのです。

 

自己表現か、それとも影響力か。

そういうバランスをとりながら、人はペンを持ち続けるのだと思います。

 

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2 comments on ““Je Suis Charlie”とペンと剣”

  1. Erinaさん、こんばんは

    素晴らしい記事ですね。

    今回のテロ事件、テロを実行した犯人が悪いのは言うまでもないです。
    週刊誌関係者への報復ならまだしも、罪のない民間人4人が犠牲になったのは残念でなりません。
    イスラム国、アルカイダなどの組織との関与が取りざたされていますが、今回のテロをイスラム過激派による無差別テロと見なすことは危険だと思います。
    「もし、週刊誌が宗教に配慮して記事を書いていたら事件は起こっていたのか」を私自身ずっと考えていました。

    欧州目線で言えば単なる「風刺」なのかもしれませんが、敬虔なイスラム教徒にとってアッラー、ムハンマドは神の存在です。
    一日5回の礼拝、暑い中での断食、更には一生に一度のメッカへの巡礼、これは全てコーランに基づいた物であり、彼らは宗教を生活に取り入れています。
    私もインドで多くのムスリムに会いましたが、イスラムの教えを忠実に守り、他者に寛容な社会を形成していることに対して、無宗教同然の私は非常に感銘を受けました。

    今の時代「グローバル化」が叫ばれていますが、この時代だからこそ宗教、文化を勉強するべきだと私は思います。
    不景気が続き、失業率が高止まりしている欧州では移民への反発から保守政党が議席を伸ばし、極右政党も台頭し始め「20世紀前半に戻った」感が否めません。
    フランスでは旧マグレブからの移民が増加し、総人口の7%を移民が占めるまでになりました。

    今回のテロも「ホーム・グロウン」、白人中心の社会に不満を抱き理想の社会を追究した結果、イスラム過激派に魅了されてイスラム国へ渡航し軍事訓練を受け、帰国した若者によって行われました。
    テロの行為は絶対に許されませんが、テロを教訓に社会構造を見直し、このような若者を生み出さない社会を作るべきだと私は思います。

    資本主義による格差社会の是正、移民に対する理解、宗教に対する配慮が急務だと思います。

    アメリカでも警察官による人種差別問題、カナダ、オーストラリアでもテロが発生し、罪のない民間人が亡くなりました。

    ペンの力は強し、しかしその力はペンを握る人間によって良くも、悪くも変わることを私達は考えなければなりません。
    私は、Je suis non Charlie, 宗教を冒涜しては決してならない、エブド側にも責任があると思います。

  2. Ayakoさん、コメントありがとうございます。

    きっとこれは世界中そうなのかもしれませんが、自分の社会に不満を持っている人ってこの現代にすごく多いと思いますね。
    景気もそうだし、こうやって広く情報が手に入ってしまうおかげで、周りと比べてしまう。それも根本的なことを知らないで、表面的に「あっちは良いなぁ」と思ってしまい、自分のネストに不満を持つ。
    だからこそ、(特に若いときに)海外に出ることってすごく大事だと思うんですよね。
    私も特に愛国心が強かったわけではないですが、外から見ることで日本がすごく好きになれましたから。
    でも自国への不満と、外部への羨望だけが残ってしまうと、こういう過激派が国内で育つのかと思います。

    こういう攻撃的な表現をする人たちって、ある程度の「覚悟」もあるんでしょうね。
    2011年にもオフィスが攻撃されたことがあるみたいだし、初めてのことではないでしょう。彼らには彼らなりの意図やミッションがあったのだろうし、自己表現という部分を否定するつもりはないです。
    ただ、作品に対して持つ愛情やリスペクトを、作品の対象にも持てれば良いのに、と思いますね。

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