学位の重み(後編)
アメ10読者の皆さんこんにちは、KAZでございます。
前回の記事で、日本の大学における学位の現状について書きましたが、今回はそれと比較して、アメリカでの状況です。
ただ、ボクもアメリカに来てまだ3年目で、いろんな大学を見てきているわけではないので、 ボクの働いている大学内の話について書いてみたいと思います。その為、少し偏った情報になってしまうかも知れませんがお許し下さいませ。
さて、前回の記事でも書きましたが、日本の大学では、4年生大学を卒業したあと、修士課程に進み、博士課程に進むのが普通です。
ところがアメリカでは、修士課程を経なくても博士課程に進学することができます。
それから日本では、博士課程(もしくは修士課程)に進学する際にあらかじめ自分の入りたい研究室を決めてから試験を受けるんですけど、アメリカの場合は、入りたいデパートメントだけは入学の際に決めますが、研究室は一年間のローテーションを経てから最終的に決めます。
全ての研究室をローテーションする必要はなく、自分の興味ある研究室を幾つか絞っておいて、2ー3ヶ月間ごとに各研究室で実際に研究をやってみて、その後研究室を決めます。
研究室のボスが学生の配属を拒むこともできます。
以前うちのラボにいたインド人学生は、あまりにもlazy だったためラボを追い出されました。
それから、ローテーション中の学生は、PIのグラント獲得状況についてもよく知っています。なぜならば、お金がある研究室の方が試薬をけちったりせず好きなようにやらせてくれるからです。このポイント、研究にとってかなりcriticalです。
なので、学生はグラントの獲得状況が分かるサイトをチェックしてから研究室選びをします。
所属が決まれば、さっそく研究開始です。
前回にも書きましたが、日本での場合、学生の研究テーマは教員が決めるのに対して、アメリカでは学生が決めます。
そのテーマによって学位が取れるかが決まってしまうので、学生も真剣です。
しかも、学生が自分で決めた研究テーマですので、自分の研究に対して責任を持たなければなりません。すなわち、研究が上手くいかないからといって、研究テーマのせいにしたり教員のせいにしたりすることはできないのです。
ボクは日本でPhDを獲ったのですが、いろいろ辛い思いをしました。
教授に与えられたテーマを淡々とこなしていて、いざ論文にしようというときになったときに、
「この研究はキミがやった研究じゃない。キミのアイデアじゃない。キミはただ単に実験をやっただけだ。実験をやるだけなら誰にでもできる。研究はアイデアが全てだ。この論文は○○さん(sub-boss)に書かせる。」
といわれ、その論文を書かせて貰えませんでした。
ボクはその研究テーマが自分の学位論文になると思ってずっと頑張ってきたのに、しかも、確かにテーマは与えられたけどもその後はすべて自分でconduct してきたにもかかわらず、後になってそんなこといわれとてもショックでした。
そんな自らの経験もあり、自分の研究テーマを自分で決めて自分で遂行する事はとても大切だと思いました。
大学院生はそれだけ自分の研究に責任を持っているので、自信のあるデータじゃないと使わないですし、プレゼンテーションで質問をされたときにきちんと答えられるように研究のバックグラウンドについてもしっかり勉強しています。
それから、彼らは基本的に時間をきっちり決めて実験します。朝8時頃にラボに来て、夕方5時には帰っていきます。夜遅くまでやっている学生は一部のworkaholic(特に中国人)ぐらいです。
しかし決して怠けているわけではなく家に帰っても論文を読んだり、授業の予習をしたり、試験勉強をしたりしています。
ボクが経験した日本のラボは、朝それほど早くなく、夜遅くまで実験しているイメージがあります。かといって、1日丸々研究に没頭しているわけではなく、途中でネットサーフィンしたり、友達と駄弁ったり、晩ご飯を食べにいったり、結構自由です。
それから、いま日本では学位取得の条件が結構緩くて、論文が一報あれば学位を貰えるところも多いのですが、アメリカではそういう最低条件はありません。
もちろん論文を出していることが必要ですが、人によると3報とか5報とか出している人もいます。
また、日本では大学院の年数が決まっていますが(博士課程で3年間、人によってはもっとかかる)、アメリカではそういうのはなく、あくまで「学位取得に値する研究成果が出るまで」を指標にしているので、必要年数は人それぞれです。
学生は、そろそろ学位審査にかけられると判断すると、自ら申請して学位委員会にかけられます。
そこで学生はいままで行ってきた研究の内容を委員会メンバーのまえでプレゼンします。
そこでNOが出される場合もあります。
それをパスすると、今度はFinal Defenceというのを行います。
日本でゆうところの「学位審査会」ですが、アメリカでは「defence」というだけあり、学位を「give」されるモノではなく、「earn」するものとして捉えています。
Final Defenceの聴講に参加してビックリしたこと。
プレゼンも終わり、最後のAcknowledgementのときに感極まって、泣いてしまう学生が結構いるのです。プレゼンの会場には配偶者や家族が観に来ていることもよくあるので、家族に対する感謝の気持ちもあるのでしょう。こっちまでウルウルしてきます。
それだけ頑張って得た学位(まだ最終審前ですが)なので、感情がイッキに溢れてしまうのでしょう。
プレゼン後、審査委員会メンバーが集まった会議をし、学位を与えるに値するかが議論されます。
そして最終的に学位が授与されることが決定すると、日を改めてHooding Ceremonyがおこなわれ、担当教員からガウンをかけてもらいます。みんなで一緒に卒業式ということは行いません。
そこでは担当教員から、学生がどのようにして研究を頑張ってきたかのスピーチがあり、また学生もいままでお世話になった人々に対して感謝の気落ちを込めてスピーチを行います。ここで90%の確率で泣きます。
ところで、英語で卒業は「commencement」といいます。この単語には他に、「開始、始まり」という意味を持ちます。
すなわち、卒業は「終わり」ではなく、これから社会に出て行くスタートなのです。
日本で、修士学生や博士学生でさえ修了式で着物や袴で着飾って浮かれているのを見ると、「卒業式・修了式」のとらえ方に大きな違いがある気がしてなりません。