Adoption(養子縁組)
先日、いつも通っているクリニックで何気なくテレビ画面を見ていて、あるドキュメンタリーに思わずひきこまれました。
いかにもアメリカのティーネイジャー、という雰囲気のアジア人の女の子が、運動の楽しさを生き生きと語っています。
いまどきの若者らしい話し方、無駄なく鍛えられた健康そうでしなやかな体。
彼女はいくつもの大会で優勝しているすぐれたアスリートです。
でも彼女の全身が写された画面で、彼女の片足が義足であることがわかります。
そして今までの経緯が語られます。
彼女の名前はScout Bassett。
Scoutは中国で生まれたのですが、1歳のときに火災でひどい火傷を負い、右足を切断することになりました。またこの火災のためかどうか不明ですが、負傷すると同時に孤児院に送られたそうです。
決して生活環境が良いとは言えない孤児院で7歳まで暮らし、その後アメリカのミシガン州に住む夫婦に引き取られます。
アメリカの新しい両親が最新技術を使った新しい義足を買ってくれて、周囲の好奇の目から逃れるように、Scoutは運動にのめりこんでいったそうです。
そして片足が義足というハンデを超えるような素晴らしい運動能力を発揮して、様々な大会に出るようになります。
やがて、同じように片足が義足でありながらトライアスロン選手というSarah Reinertsen に出会い、「自分にも出来る!」と確信してトレーニングを重ね、多くのマラソン大会やトライアスロン大会で受賞するようになります。
彼女がインタビューに答えて語る内容が胸に響きました。
「私の姿を見て、自分とは全然違うと人々は思うかもしれない。でも、実際には誰でも障害を抱えている。家族との問題、学校、友達・・・。それがなんであっても、障害は絶対に超えられる。必要なものはすべてあなたの中にある。最初は小さい一歩でいい。その一歩が積み重なって、いつかは夢にとどく」。
彼女のバックグラウンドを考えると、ずっしりと重みのある言葉です。
さて、このドキュメンタリーを観て私が考えさせられたのは、アメリカでは決して珍しいことではない「Adoption」という制度のことです。
Scoutが夢をかなえたのは、もちろん、彼女自身の努力と精神力があったからこそです。
でも、もし7歳のときにひきとられてアメリカに来ることがなかったら・・・?
その強靭な精神力と努力を発揮する機会が訪れる可能性はそれほど高くなかったのではないかと思います。
中国の孤児院で、粗末な手作りの義足をつけ、やっと動き回れるようになると、Scoutは赤ちゃんの世話や建物の掃除など、雑用を一日中させられていたそうです。予算の限られた孤児院ではしかたのないことだったのかもしれません。それでも写真を見ると7歳まできちんと発育しているのですから、この孤児院がとくべつ劣悪な環境だったとは言えないでしょう。
しかしアメリカのミシガン州に移ってきたときの、彼女の環境の変化はおそらく、完全な別世界にやってきたというほど衝撃的だったのではないかと想像します。
広々とした中西部の土地、フレンドリーな人々、豊富な物資、優れた医療。彼女をひきとった両親はきっと、今までの分もすべて取り返そうとするかのように、与えられるだけの愛情を彼女に与えて育てたことでしょう。
両親からの愛と支援があったからこそ、Scoutの運動に対する熱意や、たゆまぬ努力、精神力、運動能力が花開いたのだと思います。「自分にもできる!」そう確信するまでの彼女には、「あなたにもできるのよ!」という両親からの励ましがあったに違いない、と私は推測します。
障害を乗り越えて上記のような感動的なコメントができるようになった「我が娘」を、両親たちは心から誇らしく思っていることでしょう。
そしてこういうことが可能だったのは、まず、アメリカで一般的に広まっているAdoption(養子縁組)という制度があったからです。
日本で「養子」といえばとても特別な存在だったり、本人が知らなくて大人になってから知ってショックを受けたり、本人は知っていても周囲には内緒だったりします。
アメリカでは決して珍しいことでないばかりか、タブーとか秘密扱いではなく、本人が知ったからと別にショックを受けることでもなく、だいたい両親と子供が思い切り人種が違うので秘密にしようにも不可能、という場合も多々あります。
ハリウッドのセレブリティたちが次々とAdoptionを実行して、いろいろな国の赤ちゃんたちを抱いて誇らしげに歩く姿がパパラッチされているのも、イメージアップに貢献しています。
このアメリカと日本の違いにはやはり、血縁関係を重視する日本の伝統や文化という背景があったり、子供をAdoptしたいと思う両親と、子供を育てられなくて困っている両親の間をつなぐ制度があまり機能していないという構造的問題もあったりして、なかなか簡単に解決することも、こうするべきだ、と結論を出すこともできないものがあります。
しかしこのAdoptionという制度とその制度に対する人々の理解という一点について言えば、私は、欠点もたくさんあるアメリカの、素晴らしい一面のひとつだと思います。
ドキュメンタリーの中で、中国から引き取られたばかりのScoutを抱きしめる母親の写真が紹介されていました。まだ途方にくれたような顔をしているScoutを、母親は満面の笑顔で幸せそうに抱きしめています。
その写真を見るだけでも、この母親の愛情が十分伝わってきますが、アメリカのAdoption事情について少しでも知識があれば、この両親がどんなに慈愛の精神に満ちた人かがよくわかります。
ここから先の話をすると私はいつも少し心が沈みます。
Adoptionは決して美しいだけの話ではありません。
Adoptionの世界には、さまざまな条件によって、引き取られやすい子供と、最後まで残ってしまう子供がいます。
まず、子供の年齢が低ければ低いほど、条件が良くなります。
さらに、人種によっても変わってきます。もし私がAdoptするとしたら、自分がアジア人なので、アジア系の赤ちゃんがいいな、と思いますが、Adoption 全体を見ればアジア人より白人の赤ちゃんのほうが人気なのだそうです。
障害があるかどうか、によってもまた大きくかわります。生まれたときに障害がなくても、妊娠中の母親が薬物など摂取していないか、アルコール中毒だったかどうか、などを重要視する人も多いようです
まるで子供の命が商品として扱われているような、なんとも悲しく冷酷な現実です。
白人の、新生児の、健康な両親から生まれた、健康な女の子。
これが、Adoptの対象としては一番人気の条件なのだそうです。そんな条件のそろった赤ちゃんは、争奪戦の対象となります。
逆に、すでに大きな子供になってしまっている子、障害のある子の場合は、むしろ、引き取ることで州や国から財政援助があったり、課税を優遇してもらえる制度さえあります。
こんな話を聞くと「ひどい」と思うかもしれませんが、では、仮に自分がAdoptすると考えたらどうでしょうか?
可愛い赤ちゃんが欲しいのに、授からない、ではAdoptはどうだろう?と考える両親だったら、当然のように新生児を望むのではないでしょうか。
そのこと自体は、決して責められるようなことではありません。
生物学的な我が子でさえ、子育ては大変です。可愛い赤ちゃん時代が終わってだんだん生意気になってくると親も苛立つことが多いのですが、それでもその子が生まれたときの感動や赤ちゃんのときの可愛さを思い出して頑張ります。
そういう思い出や培った絆がなく、もうある程度成長してしまった子供を育てる場合、親にも相当な精神力が必要です。ましてや障害がある、すでに成長した子供の場合。医療費がかかるなどの実質的な大変さだけでなく、子供が受けた心の傷が、さらに子育てを大変なものにします。
実際に心に傷を負った孤児は多いので、そういう子供をAdoptするには、両親も知識をつけ、トレーニングを受けなければなりません。そのような心構えなしに、ただ「かわいそうだから私が育てる」という気持ちで引き取ってしまったら、その後さらに大きな悲劇につながりかねません。
海外から子供を引き取るのは、手続きも大変だし、渡航費などもかかるし、実際何度も中国に足を運ばなくてはならないし・・・、セレブリティはまるで気軽にやっているかのように見えますが、一般庶民には大変です。
しかしそんな大変な思いをしてでも、自ら苦労の多い子育てを望んで、子供を引き取る人がアメリカにはたくさん存在するということです。
ScoutをAdoptした両親もそういう人たちなのだと思います。「子供が欲しいから」という自分の欲求からではなく、ただ、「愛情を必要とする子供に愛情を与えたい」という精神でAdoptする子供を探していたのでしょう。
その精神が見事に花開いて、この生き生きとした若いアスリートの笑顔に結実したんだ、と、義足で堂々とグラウンドに立つScoutの笑顔を見ながら、私は深く感動しました。こういうエピソードを知ると、人間っていいものだな、いろいろ社会問題はあるんだけど、やっぱりアメリカっていいな、と思います。
文化的な背景を乗り越えて、日本にもぜひAdoptionという制度がアメリカのような形で一般化してほしいと思います。社会的な制度と、養子を特別視・タブー視する風潮の消滅も含めて。
日本人にも「できることなら自分が育ててあげたい」と思う気持ちはしっかりとあるんですよね。
子供の虐待事件などが報道されるたび、ネット上で「子供が欲しいのにできない私たち夫婦がひきとってあげたかった」「うちに来てくれたら、たくさん遊びに連れて行って、たくさん可愛がってあげたのに」なんていうコメントを大量に見ます。
この人たちがただ思い描くだけじゃなくて、実際にできるようになる、そのことが決して偏見を持って見られることのない社会になったらいいなと思います。
私も同意です。
「家族」という言葉の定義が、「愛情」重視ですよね。
アメリカに来て、それこそセレブだけでなく、普通の公園やスーパーで見かける親子が、明らかに血がつながっていないだろうな、ということがよくあり、最初は本当にびっくりしました。
だけど、疑うことのない目で「私の息子だ」とか、「マミー!」と呼び合う姿を見て、その懐の深さには本当にすばらしいと感じるばかりです。
お金の話とか、子供の好みの問題とか、タブー視せず、現実のものとしてクールに扱えるところもすごい。そういうシステムがしっかりとしているんですよね。
ちょっとずれますが、外国人として単身日本からやってきて、周りの人たちがただの「友達」を超えて、「私たちは家族だよ」と言ってくれることにすごく心が落ち着きます。
こちらに来て、私の「家族」の定義は「困ったときに助けを求められる人間」に変わりました。
まったく人種が違うので一目で養子だとわかる家族もたくさんいるし、見た目ではわからない場合もあるから実際にはもっと多いだろうし、本当にアメリカではよく見かけますよね。「友達が養子をとった」という話もよくきくし、直接の知り合いにもいます。
家族の定義が「愛情」、本当にそのとおりですね。実際、夫婦はもとは他人だけど家族になるんだものね。