「行ってから踏ん張んべ」 (5)
僕が渡米した1995年の冬、日本は本当に大変な時期でした。
阪神大震災の後は「オウムの地下鉄サリン事件」。留学生には追い風だったが「史上最高の円高(確か1ドル=80円前後)」。母は何かを郵送する度に、その時の一大ニュースの新聞一面を一緒に包んでくれました。
この頃は、アメリカの大学でもやっとEメールが始まったばかり。もちろんパソコンなんて持っていない、「インターネット?はい?なんすか?」という程度の僕。日本とのやり取りは基本的に手紙が中心で、電話はまだ極めて割高で、月一回するかしないか程度。
タコマに来てから自分なりに色々と見て吸収してる今、話したいことは山ほどあるのに、現地に友達がいなかった僕。便箋(または何かの裏紙)の一面を細かい字で埋め尽くして、日本の家族や親戚、友達に送ったものです。
いよいよ短大の冬学期(ワシントン州はQuarter制)が始まると、朝は5:30頃には起床。
常にラジオ点けっぱなしで就寝していたので、眠りは浅かったかな。
腕立て・腹筋をサササと済ませ、朝食をとりながら「Saved by the Bell」を観る。もちろん辞書は手元に待機。
当時まだ車を持っていないので、朝7時過ぎ頃にラジオに耳に家を出て、トコトコと片道40分の道のりを歩いていました。
「Placement Test(クラス分けテスト)」で撃沈後、ほぼフルタイムの時間数を取らなくてはいけなかった「ESLクラス」。ただ「必ずしも英語力を必要としない内容であれば受講可」とのことなので、とりあえず「ピアノ」と「クラシックギター」を選択。両楽器とも経験者なので、最初の授業開始直後、勝手に「プライベートレッスン」に格上げされそうになるが、後日「グループレッスンで友達を作れたら素敵なんすけど…」とわざわざ下げてもらう(てか、マンツーマンのレッスンは恐かった)。
通学時のリュックサック内は、分厚い教科書数冊に英和辞典と和英辞典。片手には現地で購入の安クラシックギター。もう片方には「音読用」の(あんま意味分かってなかったけど)本。
ESLの授業は初日から「今これをやらないと俺は終わる」という物凄い緊張感に背中を押され、最前列に着席。「なるべく発音しなくてはいかん」と訳分からない内容でも気合で質問しまくり。
通常ESL教師は「質問内容を綺麗に言い直してくれてから回答してくれる」ため、知識ゼロだった僕には「なるほどこういう形で文を組み立てるのか…」と相当ありがたいやり取り。より一層質問しまくるのでした。もともと「貧乏性」な上に自費留学というのが功を奏して、本当に心身共々「マジ追われる」感覚の毎日で、あの頃は本当に一生懸命だったなぁ…(遠い目)
午後の帰り道も同じ通りを抜けながら、相変わらずゴニョゴニョと独り言をつぶやく。
帰宅後は「The Wonder Years」を観て一服。宿題は必ずその日の夕飯前には片付ける努力をし、食事後にTV前のソファに陣取るとひたすら辞書を片手に言葉を追っていました。古新聞から単行本から何まで何まで、英字が書いてあったら必ず時間をかけて目を通してました。実は当時常に「学校優先」だったため、ホストファミリーと楽しく談笑して過ごすより、一人で自室にこもり勉強してた記憶しかありません。
個人差があると思いますが、当時の僕には「生きた英語」よりも「ラジオ・TV・本・新聞」のほうが抵抗なく取り組めたので、「文章を構成する」という基礎を(日本でもできそうな気がしますが)最初に固めるのも悪くはないかも知れません。
ちょうど2月に入ってすぐの帰り道。
いつものように両手がふさがった状態でブツブツと赤信号が変わるのを待っていると、目の前に、黒塗りの車が止まる。
本から顔を上げた自分が見たのは「ウィ~ん」と下がっていくパワーウィンドウ。
「ん?」と思った次の瞬間、スッと出てきたのは手に握られた銃。
見回すと車内にはヒスパニック系の四人。全員こっちを見て、一見ニタニタ笑ってるんだけど目は怒ってる状態。
自分に向けられた銃に、「え?なに?いったい何?」と引きつりながら急に鼓動が早くなり動揺する。驚き過ぎて声が出ない。
結局「へへ」と薄ら笑いをして、その場を「キキー」と走り去った彼ら。残された僕は、ただ唖然と交差点に立ちすくむ。
ちょうどこの頃になると、「一生懸命勉強すれば、英語はもっと早く分かるようになると思ってた」という甘い考えがガタガタ崩れ始めていた頃。ホームシックだけど帰れないし、英語が半端だから生のコミュニケーションはまだ恐いし、前回いつ笑ったのか分からないくらい勉強しかしてないし、実際今自分がやっている勉強法で英語が上手くなるのか分からないし、本当に疲れてるし…
タイミングというのは「負の連鎖」にも存在するのだな、と自分の「後に引けない」現実の重さに心が病むばかり。
信号が何度も変わった交差点に立ちすくみ続け、無知で無力な自分が悔しいし苦しいし辛い。唇を噛みながら途方に暮れたこの日。トボトボと帰宅したのは暗くなってからでした。
その日のホストファミリーとの夕飯時、ワシントン内の州立大学で学ぶ息子が実家を訪れていたので、その友達と食卓を囲みました。なにやら数日間を実家で過ごすのだとか。
無口で自室に向かい「今日は何か疲れたから早く寝るか」と横になるが、昼間の交差点での出来事が若干ショックでうまく眠れない。このまま朝を迎える。
いつものように登校後、とりあえず学校の留学アドバイザーに(日本語で)報告する。「実は…」とその数日前にもキャンパス周辺でレイプが発生して学生が犠牲になったとか。
突然アメリカの現実が「平和ぼけしていた自分」に押し寄せてくる。同時に「あ~アメリカはもうダメかな」という思いが過ぎる。
gunpoint・・・・それはめちゃくちゃ嫌かも。
最初のうちって、怖いことや嫌な思いをしても、誰かに言うべきかそれほどでもないのかっていう判断基準もわからないし、そういうのってちょ~っとずつ積み重なってストレスになるんですよね。
で、「やっぱり日本がよかったな」ってなる。
日本では当たり前にできていたこと、していたことが当たり前じゃなくなると感じたとき、「これが外国暮らしか」と思いました。
たつやさんの記事を読んでいると、「初めての外国暮らし」の緊張感や、変なワクワクを思い出すんですが、じゃあこれからまたアメリカじゃない外国で生活するとして、また同じ感覚を味わえるか、と言うとそうじゃないんですよね。もう「初めて」じゃないから。それが寂しいような、うれしいような。
続きも楽しみにしています。
あの「留学当初の経験」について姉とまだたまに話すんですが、「またあの頃に戻れたら…もう二度とあんな苦労や思いはしたくない」とお互い苦笑する感じですね。
ま、結果として「英語がそこそこ話せる」「ある程度のことならビビらない」人間になれるわけですが、その代償があんなに大変なものだったとは…若さと勢いと無知さと、色々あって成せる業でした。生まれ変わったら絶対やんないことの一つでしょう、みたいな(苦笑)。
いやッ、めっちゃ怖い、通ったらあかん道が本当にあるけど。。
海外の治安はナメたらエライ目に遭いますね。。
たっちゃんが無事で本当によかったです。今後も気をつけてください。ウィチタでも。
自費留学で踏ん張る気持ち、孤独ですね。たっちゃんは光景が容易に目に浮かぶ
文章を書くので、少しせつなくなりました。でも本気で何かを目指す時、必ず自分自身の壁にぶち当たるというか、超えなあかん壁は高くそびえたってるけど、超えた時、必ず成長できてるからスゴイ。でもある意味、へんなテンションというか、かなり自分を追い詰めないと
できないですよね。。うーーんやはり続きがかなり気になります。
結構慣れてきた頃にいきなしこういう目に遭うものよね。
哀しいかな、油断はしてしまうわね。
えと、つづき踏ん張ります。