続「行ってから踏ん張んべ」(3)
夏休みバイトで帰省中の、1995年夏。
ほぼすべての書類が郵送でやり取りされていた、この時代。約一ヶ月かかって、「College of Southern Idaho」から「編入手続き完了」の知らせが届く。
同封されていた「住居関連」のリストに目をやると、短大に登録されているホストファミリーの欄と「ハウスシェア」の欄、キャンパス周辺のアパートの一覧が含まれている。
基本的にそれらとのやり取りはすべて生徒の自己責任のため、簡単に記載されている値段やキャンパスからの距離(確か、徒歩と運転について、分単位でかかれていた)などの情報を元に連絡先を絞り始める。
「ハウスシェア。光熱費込み月$300。5人まで居住可能。学校から徒歩10分。」
これは安い。しかも学校に近い。
さて連絡取らないといかんな。
…ふむ。
「え~と、お姉さん、こちらの家主さんに連絡を取りたいんすけど…」
イギリスから実家近所に引っ越していた姉を頼る、相変わらず頼りない次男。
「ほにゃほりゃふにゃらら、お~いえぇ、あはん、いぇ…あはん、おぉ~がれッ、あはん…」
ペラペラと国際電話をかける姉の横に、渡米後ほんの半年程度しか経っていないのに帰国の若干情けない弟。
すでに普通の日本語漬けな生活に戻り、英会話に対して若干億劫になっている。
結局、渡米前と同様、世話好きな優しい姉に諸々の段取りを任せ、バイトに精を出してしまう。
当時、まだ19歳。バイトで、昼夜逆転の生活でも全然ピンピンしていたものだが、朝帰宅してから午後まで眠り、夜の出勤まではゴム製のドラムの練習台(パコッという鈍い音しかしない)をパカポコパカポコ叩いて、バチをいじっているのが唯一の楽しみ。
何か暗いっすね、響きが…
でも、渡米後ほぼ半年間ずっと触れなかった分、なんかひたすら叩いてる自分。
「今回アメリカ戻ったら、先生にでも習えるかな。」
ひたすら英語を勉強することを念頭に置いていた以前と違い、「更なる英語」はもちろん、「その先」にも意識が行くようになっている。
とは言っても、国際電話でのやり取りは姉に任せっ切りだが…
1995年7月末、再渡米。
今回、当初より「故郷」を離れる切なさはない。たくましくなったのか、「外国に行く」という感覚への慣れなのか。
シアトルに戻った時点で、「夏休み、日本に帰っていたのが夢みたい」な感覚に襲われる。
まるで、継続してずっとアメリカにいたかのような不思議な感覚…
もう一つ不思議なのが、日本にいる間は(なんか恥ずかしくて)全然口にもしていなかった英語が、アメリカに着いた瞬間スラスラ出てくること。
「意外と上達してね?」
思わず勘違いしてしまう。ふ。
BCCの友人・ホッシーのアパート前に停めておいたマイカーの無事を確認。ホッシー宅では、アイダホに向けシアトルを発つ直前の二日間のみ、雑魚寝でお世話になる予定。
日本での昼夜逆転生活を引きずったまま、時差ぼけになり、体内時計は狂ったままで若干体調が悪いが、とりあえず引っ越し前の雑用を済ませる。「長距離運転には持っておいたほうが良い」というレッカー移動サービスやら簡単な修理を出張で行ってくれる「AAA(トリプルエー)」の会員にもなる。
この「AAA」、会員になると無料で地図をくれる。スマホ携帯などのGPSアプリが普通に使える今では「地図が貰える」特典に大した意味はないが、当時は出発前夜にある程度のルートを下調べしたもの。道中も、要所要所でトイレ休憩やらガソリンスタンドでの給油を挟みつつ、現在位置を確認したもの。
約12時間の運転を翌日早朝に控えた夜。ホッシー宅リビングの床に敷いた寝袋の中で、ふと思う。
アイダホ。
本当に芋畑しかなかったら、どうしよ。