親の介護:帰国か?呼び寄せか?
こんにちは、Erinaです。
海外永住組につきものの、この質問。
「親の介護はどうするか?」
先日、Japanese Family Support Center (JFSC)の月例ワークショップで、このようなトピックをカバーしました。
「介護 ~母と娘の絆~」
お話してくれたのは、海軍病院でソーシャルワーカーとして働かれている、久美さん。私が久美さんに出会ったのは、JFSCが発足された2年前でした。
久美さんは、高齢のご両親を日本から呼び寄せ、ここサンディエゴで自宅介護をされました。そのときのお母様との会話や介護の体験をもとにした本も出版され、今回は「介護」ということについてお話を聞かせていただきました。
このワークショップを機に、海外に住む娘として、自分の親の老後について考えてみたので、少しシェアしたいと思います。
私がアメリカにやってきたのは19歳のとき。留学が目的でしたから、夢と希望に満ち溢れていたわけです。(笑)
それから時間は経ち、アメリカ人と結婚し、子供が産まれ、仕事もできるようになってくると、「あぁ、私の居場所はここだな」と感じます。
しかし同時に、自分の親がだんだん年老いてくるという現実にも気づき始めます。
「ちょっと体調が悪い」
「どこそこを怪我をした」
「こんなトラブルがあった」
なんて電話越しで聞くと、多かれ少なかれ動揺してしまいます。
そしてそれと同時に、物理的に離れていることへの罪悪感、責任感。そんなものが生まれます。こういう気持ちは、自分自身の生活の基盤も無く、がむしゃらになっていた、10代、20代のときにはなかったものでした。
「親に何かあったら、どうなるんだろう?家族(旦那と子供)を置いて一時帰国?それとも呼び寄せ?」
この葛藤は、海外永住を意識している人なら、一度は通る道です。
私の母はまだまだ健康で、今すぐに介護が必要な状態ではないのですが、まぁ、人間いつどこで何があるかわかりません。
そんなことを踏まえて、私が「海外からの介護」について感じたことを書いてみます。
自分にとって介護ってどういうこと?
まず最初に、「介護」と一口でくくってしまうのは危険だということ。
介護の専門家でない場合、「介護はこういうものだ」と頭の中で固定概念を作ってしまって、それを現在の自分と親にかぶせてしまうのはとても危険なことだと思いました。
そもそも、「介護」の本質は、愛情を持ってお互いに寄り添うことであり、病院に連れて行ったり、食事を用意したり、排泄物の処理をしたり・・・ということではないと思うのです。もちろんそういうことも含まれる可能性はありますが、全てが自分の仕事と決めるのではなく、手分けをすることが可能ですよね。
「こういう身の回りの世話をすることが介護であり、それをやるのは子供(または子供夫婦)の仕事だ」と思っていると、本来の介護の意味が見えなくなってしまいますよ、というのが久美さんのアドバイスでした。
もともと、日本には拡大家族(祖父母・父母・子供)という、ジェネレーションを超えて同居する文化がありました。サザエさん的な家族構造です。
この時代には当たり前だった「親の老後は子供が面倒を見る」という価値観も、現代ではずいぶんと変わってきていると思います。
シニア介護の施設やサービスも増え、「第三者」にケアをしてもらうことが増えてきました。アメリカではこういう流れはとても当たり前なので、子供が仕事を辞めて何年も自宅介護・・・というケースはほとんど聞きません。
私の義母が亡くなったとき、最後の数ヶ月は、義妹が「介護休暇」を取り、すでに同居していた母親と一緒に時間を過ごす決断をしました。
義母は余命6ヶ月の宣告をされて息を引き取るまで、ずっと自宅で生活をしていましたが、その間は、訪問ナースやケアギバーが毎日やってきて、血圧を測ったり、投薬してくれたりと、専門的な部分は「第三者」が面倒を見てくれていたわけです。
これは、日本・アメリカのどちらに親が住むことになろうと、その地域ではどんなサービスがあって、どんなことを利用できるのか、というリサーチを誰もがしておくべきですね。
また、核家族化が進み、並行して共働き夫婦が増えると、高齢化した両親と一つ屋根の下で暮らすことが減りました。現代の日本でも、親と同じ町で暮らしてはいるものの、毎日顔を合わせることはない・・・というケースが多いのではないでしょうか。
これは、お互いの生活を尊重(リスペクト)し、ある程度の物理的距離を置くことで、親も子供も自立した生活ができるからで、それが悪いこととは限りません。
しかし時間が経って、親が何かしらのケアを必要としたとき、「じゃあこれから面倒見てよ」「じゃあ一緒に住もうよ」となると、様々なバランスが崩れるわけです。
もちろん、親子の間に愛情がないわけでも、嫌い合っているわけでもないのですが、いったん自立した存在をくっつけようとすると、なかなか難しい。
拡大家族時代には、同居→介護という流れも自然なものでしたが、それも薄れた今、別居→同居+介護というのはなかなか大変なわけです。
精神的なつながり
久美さんの言葉で印象的だったのは、「介護がどんな形になるかは、親子のそれまでの関係(絆)で決まる」ということでした。
どういうことかと言うと、それまで疎遠だった親子関係が、介護をきっかけに距離が縮まるか?と言われたら、おそらく難しいでしょうし、それまで友達同士のように仲の良かった親子は、きっとそういう関係を保ちながら介護状態に入っていくかもしれません。
・・・と、言葉にするには難しいですが、親子関係って本当に十組あったら十通りあるわけです。
だから、「介護」という言葉を武器に、これまでの親子関係をなかったことにしよう、というのはやはり親子どちらにも無理があるわけです。
私自身は、とても独立心が強く、自分の選択は自分でしたい性格です。
独立心の強い人って、何かを強制させられることがすごく嫌で、その不快感を知っているので、他人に何かを強制することを嫌う人が多い。
私は12年前に、自分の選択と意志でアメリカにやってきて永住を決めたわけで、それを親に強制するつもりは全くありません。もしアメリカ生活が気に入ってくれて移り住むのなら良いけれど、私がいて便利だから・・・という理由で、親の人生を背負う責任は大きいわけです。
かといって、親の老後を無視できない現実。
そこでやはりキーとなるのは、「介護ってどういうことか?」だと思うのです。
それは物理的にそばにいて身の回りを助けることではなく、愛情を持って、お互いの生活に寄り添うこと。
そういう気持ちを持っていれば、日本とアメリカという物理的な距離があっても、お互いの生活をリスペクトし、無理な変化を起こさなくて済むのかもしれない。私はそういう結論に行き着きました。
そこに「罪悪感」や「責任感」を混ぜてしまい、自分の気持ちや現実に目隠ししてしまうことは簡単です。
また、私自身、親になってわかることですが、そういう感情やプレッシャーを、子供に植え付けることも簡単なことです。
しかし、それが本当に、自分の親の、自分の、そして自分の子供の、幸せにつながることでしょうか?
もちろん、以上のことを全て理解したうえで、「やっぱりお母さんの面倒を見たい!」という方はたくさんいらっしゃるでしょう。
久美さんもその一人で、私は素晴らしい決断だと思います。
ただ、完全介護が現実的じゃない方もたくさんいるし、そのときに、こういう気持ちが背景にあることを認識しておくことは必要だと思ったのです。
「今から何年も先のことを考えても、答えは出ません。
準備をしておくことは大事だけど、それよりも大事なのは『柔軟性』。
そして、決断の時には、悔いの残らない決断をすること。」
久美さんのアドバイスは、私の中でとても強く響きました。
そうなのそうなの、漠然と不安があって、今すぐに介護が必要なわけではないけど、それが突然の病気だったり事故だったり、いつそれが必要になるかは誰にも分からない。同じ国内で住んでたってやっぱり大きな問題で、私もとにかくいろんなこと調べたよ。
要介護にもレベルがあって、両親の住む地域ではどのレベルに対してどんなヘルプをつけてくれるとか、もし自分の地域に呼び寄せたとしたらどうかとか、大きな機材を必要としない検査までなら訪問医でも対応が可能で、通院の頻度を劇的に減らせるから仕事を休む日数も月に数回で済むとか、いろいろシミュレーションができるんだよね。
みんなが健康で幸せなら一番だけど、病気しても年老いても、上手に助け合って幸せに暮らしたいよね。
Kazumi、コメントありがとう。
人生の中のステージって言う意味では、結婚とか出産とかっていうのに似てると思うんだよね。漠然と不安があり、具体的に考えても、答えが出ない。
結局、そのときになってみないとわからないんだよね。
それまでにリサーチをしておくっていうのは大切だと思うけど、それに振り回されても良くないし。
ただ、子育てと違うのは相手は大人ってことだよね。そこで久美さんが言う、「それまでの親子関係で決まる」なんだと思う。
子育ても介護も結婚も、十人いれば十通りあっていいんだなって思えたよ。
ロサンゼルス在住です。今まさにその問題に直面していて、このページに辿りつきました。一人っ子で、母親が日本で独りで暮らしていて、いずれは呼びよせようと思っていましたが、高齢者の移民に適応する医療保険のことを調べ始めましたが、厳しい現実があり、母親に簡単に一緒に住もうとも言えません。久美さんは、お母様の保険をどうされたのでしょう。