アメリカに移住するまで Maki-K編 4
Maki-Kです。
アメリカに移住するまでの話をつらつら書いています。
20年前の写真を実家の押入れから探し出してくるのに時間がかかり、前回から随分間が空いてしまいました。前回までの話を読んでない方、読んだけどもう忘れてしまった方、是非、初めからお読みください♪ ↓ ↓
アメリカに移住するまでMaki-K編その1、その2、その3。
さて、めでたく大学3年生終了までに卒業に必要な単位をすべて修得した、20数年前の私。英会話の練習もできるだけやったし、着物も自分で着つけられるようになった。お茶の作法も一応OK。その他赴任先の学校で使う資料もばっちり。「アメリカから帰ってくるまで半年間待っているから、僕と付き合って!」という男子の告白にも目もくれず(なに寝ぼけたこと言っとるんじゃい)、1992年4月。いよいよ旅立ちの日になりました!
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初めての飛行機。初めての海外。初めてのアメリカ。
航空券と到着先の空港での出迎えの手配までは、インターナショナルインターンシッププログラムスが手配してくれていました。成田からの出発だったので、前日東京まで一人で大きなスーツケースを転がして出てきた私。たしか大学生協と提供している渋谷にある小さなホテルでした。自宅通学の地方の大学3年生。都心のホテルに一人で泊まるだけでもドキドキです。
フライト当日は箱崎でのチェックイン。確か他のプログラム参加者と合流して成田空港へ向かったと思います。
もう遠い昔のことなので、このあたりの記憶はあいまいですが、チケットがまだ赤い文字でタイプしてある数枚つづりのものでした。チェックインカウンターで手続きを澄ませたら、プログラム参加者の行き先は様々。みんなそれぞれの目的地へ向かいます。
私の目的地はワシントン州シアトル。
私がもらっていたチケットは、今はなきノースウエスト航空。初めての飛行機で他と比べることはできなかったといえ、乗り心地の悪さは印象的でした。飛行機って窮屈・・・。
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9時間のフライトの後、無事シアトルに到着。初アメリカ上陸をはたしました。
来ちゃったよー!アメリカに!
J1ビザを使っての入国もとどこおりなく済み、スーツケースを拾って、
さぁいよいよ!
迎えに来ている人とご対面ーーー―!
ご対面ーーー!
ご対面・・・・
同じ便で到着した人たちは、もうみんな空港のロビーから出て行ってしまいました。
そしてがらーーーんとしたロビーに一人で残された私。
えっ!?
えーーーーーーーーーーーーーーっ!?
迎えが来てないじゃんっ(怒)!!!
今と違ってインターネットも携帯電話もなかった時代。
どーーーーする私っ!?( ̄▽ ̄;)ヒーッ!
・ ・・とりあえず突っ立っていても仕方ないので、近くにあった空港のインフォメーションの人に状況を説明。呼び出しをしてもらえるか聞いてみる(最低限の英会話を習得しておいてほんとよかった)。
そしたら乗ってきた航空会社のカウンターで頼んでくださいとのこと。
で、航空会社のカウンターで頼んでみる。→ 呼び出し→やっぱり誰も現れない。
さぁ~て、どうする??
・・・次は公衆電話に挑戦。
あらかじめ教えてもらってあった赴任先の学校と、ホームステイ先へ電話をかけてみる。
→留守伝→空港で待ってますとメッセージ。
さぁ、次は?
・・・ないよなぁ。
ここでじっと待ってるしか、ないよなぁ。
これはもうひたすらここで待つしかなさそう。
この時間、到着する便がなかったのか、広いロビーにいるのは私一人。
ぽっつーーーーーーーーーーーーーーーーーん。
ひとりさみしく椅子に座ってました。
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小一時間くらい待ったでしょうか。
私の名前が書かれたボードを抱えて、いそいそとロビーに入ってくる二人組発見!
キターーーーーー( ・∀ ・;)!
って、到着便が何もないこの時間になぜやってくる!?
どうやら到着時間が間違って伝えられていたようです。
・・・とまぁ、こうしてアメリカでの半年間のインターン生活が始まりました。
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シアトル郊外、Sea-Tac Airport(シアトル・タコマ国際空港)に程近いFederal Wayという町のWoodmont Elementary Schoolという小学校が私の受け入れ先でした。生徒の家庭2軒にホームステイさせてもらいながら、4月~10月末までの半年間、ここの小学生たちと過ごしました。
私のホストティーチャーになってくれたのは、二年生担当のナンシー先生。とっても穏やかで、優しく親切なベテラン先生でした。
私のような日本からのインターンの受け入れを決めてくれたのは、この小学校の校長先生。校長先生と、ホストを引き受けてくれたナンシー先生には本当に感謝です。
とても親切だったナンシー先生。こんなすてきなポスターを用意して、私を迎えてくれました≫≫≫
さて。
学校に受け入れてもらえたからと言って、私のセッションが前もってクラスの授業に組み込まれているわけではありません。生徒たちに日本の文化を紹介したかったら、自分から売り込みをかけなければいけないのです。クラスの中でできることを一覧表にしたり、実際に習字や折り紙などの作品を作ったり。それを持って先生たちへ「私、こんな事できるんですけどクラスの中で紹介させてくれませんか~?」とこちらから積極的にアピールしに行きました。
これは人見知りだった私には、かなーーり高いハードル。でもだからといって遥々シアトルまで来て何もせずにぼーっと過ごすのは悲しすぎる。
。。。自分の弱点を打破すべく、頑張りました。
≪≪≪新聞紙で折った兜をかぶって。Samurai worriers! とこれは低学年でも高学年でも受けました。
≪≪≪習字の練習。
子供たちの名前をカタカナにして、それを筆と墨で書いてもらいました。書道はどの生徒も真剣だったなぁ。
≪≪≪日本語で歌を歌ったり
ひらがなを教えたり。日本語で数を数えるのも楽しかったみたい。
スライド(そのころはまだパワーポイントなど存在せず)を使って日本の町並みや一般家庭の様子を紹介したり。ビデオで日本のアニメや大相撲を見せたりもしました。
ちょうどハワイ出身の大関小錦が活躍してた頃で、大相撲のビデオに子供たちは大興奮!ビデオを見た後に校庭で実際に相撲をとったりもしました。茶道の紹介ではお抹茶をおそるおそる飲む子供たちを見るのが楽しかったです。
4月~10月の半年間のステイと言っても、真ん中に2か月の長い夏休みがあったので、実際に学校にいたのは4か月弱。でもその間にたくさん子供たちと触れ合い、日本の文化も紹介することができました。どっぷりと英語環境に漬かれて、私の英語力もUP!
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2か月間の夏休みには、他の州にいるプログラム参加者と一緒にアメリカ国内を旅行しました。
シアトルからスタートしてまずカナダのビクトリアへ。そしてサンフランシスコ、ラスベガス、グランドキャニオン、ロサンゼルス、サンディエゴと南下し、最後はメキシコのティファナへ。アメリカ西海岸縦断の旅です。
ホストファミリーのヘルプなしで、自分で旅行の手配をしたこと、そして旅程を無事終了したこと。レンタカーを借りて運転したことなど、「異国の地でもなんとかやっていけるじゃん!」と、この二週間の旅行も、当時まだ21歳と若かった私に大きな自信をくれました。
≪≪≪次に来る時は絶対に谷底まで下りる!と誓ったグランドキャニオン
それから、たった6か月の滞在でしたが、日本から友達が3人も訪ねてきてくれました。
友達も一緒にホームステイ先に一緒にステイさせてもらい、アメリカ生活を経験。きれいなシアトルの街は何度観光に行っても、飽きることはありません。
ホストファミリーと私、日本から来てくれた友人と≫≫≫
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初アメリカ上陸で、カルチャーショックもたくさんうけました。
●まず、家がでかい。部屋がたくさんある。お風呂もトイレも複数ある。
●お父さんも夜ご飯を作る。お父さんが部屋の掃除をする。←写真を撮って自分の父親に送りました。アメリカのお父さんは家事もするよ!って。
●夜ご飯をファミリーでTaco Bellやマクドナルドへ食べに行く!?
●バスほどの大きさのキャンピングカーにモーターボートを牽引して、ロードトリップに行く(日本の道じゃ交差点曲がれない~)。
●年下のボーイフレンドが、自分で車を運転して私を迎えに来る。まだ16歳なのに!
●ゴミの分別リサイクルがとても進んでいる(今では日米逆転していますが・・)。
ほかにも、
●庭にリスが来るとか。
●すぐ近くの海岸(Puget Soundピュージェット湾の奥のほう)にシャチが迷い込むとか。
●ひたすら大きいナメクジとか。
これはカルチャーショックじゃなくて、自然が身近ショック。
ホストファミリー所有のボートで水上スキーに挑戦!≫≫≫
そして1992年といえば、クリントンアーカンソー州知事(当時)が大統領選挙へ初出馬していた年。アメリカは盛り上がっていました!
前回までの話で書きましたが、「アメリカの政治という授業が面白かった」という理由でアメリカ好きになった私です。授業で聞いていたことが、目の前で、生で繰り広げられる興奮!
きゃ~!ネガティブキャンペーン、ほんとにテレビでやってる~~!
みんな庭に支持候補者のプラカード立ててるー!
バス停で知らない人同士が、どっちの候補者に投票するかで論議してる~!
選挙が熱い!
11月初めの一般投票日に向けてどんどん盛り上がっていくアメリカ。
周囲の様子を見てるだけも面白かったんですが、なんと!シアトルにクリントン氏が街頭演説に!これは見に行かなければ!!!
ビルの屋上に構えるスナイパー(?)たち、馬に乗っている警官、クリントン氏の周りを固めるSP、そして熱狂する群集。アメリカだー!
そしてなんと・・・・演説を終えたクリントン氏が、道路脇に並ぶ群集と握手をしながらこっちへやってくるではありませんかっ!
きゃーーーー!
クリントンさんと握手しちゃったーーー!!!
もう手、洗わないー!
・・・ホストマザーと二人、大盛り上がりで帰路に着きました。
≪≪≪この人だかりの中にクリントン氏がいる。
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・・・やっぱりアメリカは面白かった。
期待通り、いえ、期待以上に面白かったアメリカ滞在でした。
半年間どっぷり英語環境につかることもできました。
日本の文化を紹介すると言う任務も終了。
さぁ、一旦日本に帰ります。
楽しく拝読させて頂きました。私は1994年〜1996年辺りに近くのタコマに住んでいて、高校で日本語のチューターをしてました。読んでいてその頃の懐かしい記憶、初めてのシータックやホストでの夕食がホットドック、イクメンが当たり前の社会など、その時感じた衝撃の記憶が甦ってきました。ありがとうございます!
続きを楽しみにしています。
SHINICHIさん
コメントありがとうございます♪
私も、この記事を書き始めるまではほとんど忘れていたようなことばかりで、書いているうちに自分の中でだんだん盛り上がって来て、最後はかなり興奮してしました(笑)。
1994年~タコマというと、アメ10ブロガーのTatさんと思いっきりかぶってますね!
Tatさんの「行ってから踏ん張んべ」シリーズも、まだお読みでなければぜひ読んでみてください。彼の話も楽しいですよ。第一話はこちらから
→http://takeiteasyinamerica.com/?p=7683
私の話の続きは、実は先ほどUPしたところなんです。この記事の一番下の「つづく・・・」をクリックすると次の記事へ飛べるようにリンクを貼ったので、またお時間のあるときにでも読みにきてください。
前倒しで必修科目取れないうちの大学では無理でした。
>あいさん
大学によって違いますよね。
私が行った大学は、どの授業をどの年に取るかという縛りは英語関係の一・二年生の時しかなかったように記憶しています。もう20年も前のことなので、今はどうかなぁ。教員免許を取ろうとすると授業が増えるから、私のようなやり方は当時でも無理でした。
あいさんもやっぱり大学在学中に留学されたんですか?