決めない会議、責任取らない会議、進まない会議 ─ 日本の“合意地獄”はこうして生まれる
こんにちは、Masaです。今日は少しドギツ目なネタを一つ。誹謗中傷してるわけではありません、あしからず。笑
アメリカに住んでしばらく経って、いろいろなカルチャーショックを経験してきましたが、その中でも静かに、でもじわじわと効いてくるショックがありました。
それが、「日本の会議、意味わかんなくない?」って話です。
アメリカの会議って、めちゃくちゃシンプルです。
始まったらいきなり本題。目的が明確で、必要な人だけが参加してて、10分で終わる。で、終わったあとにはTo-Doと誰が何をやるかがしっかりリスト化されてる。「決まらなかったこと」は、たいてい最初から会議に持ち込まれません。
一方、日本。
「それ、会議でやる必要ある?」が毎週開催される。
たとえば、朝イチの会議。
「まずは皆さんのご意見を聞いてからにしましょう」って始まるんですよね。これ、最初は「民主的でいいな」と思ってたんですけど、実態は“誰も責任を取りたくないから全員で様子を見る会”だったりする。で、1時間話して出た結論が、
「一度、持ち帰りましょう」
……持ち帰ってどうすんの?誰が温めるの?冷蔵保存?
しかも、誰が最終判断するのかも謎。「上に確認してから」と言った人が上司に確認し、その上司がまた別の上司に確認し、最終的に「課長代理補佐見習いAさんが判断します」ってなってて、意思決定が伝言ゲーム状態。
アメリカでは、「責任は自分が取るから、こう決めよう」と言う人がリーダーです。日本では、「みんなが納得する形にしましょう」と言う人がリーダーっぽいけど、結局誰も納得してなくて、進まないまま終わる。
でね、資料。
これがまたすごいんです。スライド32枚に注釈付きの別紙5部、さらに手書きの裏紙資料。…って、どんだけ準備するの!?ってくらいのプレゼン大会なんだけど、中身はたいてい、「引き続き注視してまいります」みたいな無難な表現。
だったらスライド3枚でいいから、決断しようよ…。
あと、笑ってしまったのが、議事録の承認のためにまた会議を開くっていう謎儀式。「前回の議事録に誤記があるかもしれないので、次回確認しましょう」って…。いやいや、その時間で次のアクション決めようよ!って突っ込みたくなる。
日本の会議って、どうしても「納得を重視するあまり、決断が遅れる」傾向がある気がします。もちろんそれが悪いとは言わないけど、アメリカで「会議10分、決定事項5個」に慣れた身からすると、あのスピード感と明確さは本当に衝撃でした。
正直、軽く泣きました。感動して。
最終的に、会議って何のためにあるの?と聞かれたら、「合意のため」じゃなくて「意思決定のため」だって、今は思います。
そして、決断があるからこそ、動ける。行動できるからこそ、改善もできる。
「Yesマンだらけで、No oneが何も決めない」そんな会議から、そろそろ卒業しませんか?
一度の失敗で終わってしまうという恐怖感が日本ではそうさせているのではないでしょうか。もしこの決定で失敗したら…と思ったら、すぐに判断・決定できないと思いますう。ほぼすべての参加者の了解を得る必要があるわけで、会議ではみなさん周りを見ていますから、会議では絶対に決まらないわけです。じゃあなぜその「恐怖感」があるのかAIに聞いてみたら、以下のような回答でした。
1. 集団主義と同調圧力
日本社会は「和をもって貴しとなす」という価値観が根強く、個より集団の調和が優先されます。
そのため、失敗して集団に迷惑をかけることを極端に避けようとする傾向があります。
一度でも「空気を乱す存在」と見なされると、再び信頼を取り戻すのが難しいと感じてしまうのです。
2. 教育と評価システム
日本の学校教育は「減点方式」が中心で、ミスをしないことが重視されます。
テストでも「100点」が基準で、そこから減らされていくスタイルです。
このため、「間違えること=悪いこと」「一度の失敗で価値が下がる」と無意識に刷り込まれます。
3. 終身雇用文化の残滓
終身雇用制度が支配的だった時代には、「一度の採用、一度の昇進」が一生を左右しました。
転職ややり直しが難しかったため、「ここで失敗したら終わり」という意識が強く形成されました。
現代では少しずつ変わってきていますが、文化的な影響は今も根強く残っています。
Saitoさん、いつもコメントありがとうございます。
そうですね、Masaもピュアな日本人ですし、日本でもサラリーマン経験もあるので、Saitoさん(とAI)のおっしゃることはよく理解できます。
多分、日本流とアメリカ流のバランスを取ることができれば最強になれるのではないかと思っていまして。ま、Masaはアメリカに済んでいながらも、アメリカ流よりも日本流に近いと思いますけど(苦笑)。